現在、アメリカ・サンフランシスコにて生活している野沢直子が今回、新型コロナウイルス感染症について、コラムを寄せてくれました。ラフマガ独占公開です。

コロナが降って湧いたようにやってきて、世界中が見事にひっくり返った。世界がひっくり返ったスピードが、しょうもない膝カックンを入れられた時のようにあまりにあっけなく落ちたので、もう笑いたくなる。去年の年末、年が開ける瞬間に、2020がこんなことになるなんて誰が予想していただろうか。

人類の歴史上、疫病との戦いで人は生活様式を変えてきた。我々はそれを今、まさに通り抜けているのである。

三月中旬、私の住んでいるサンフランシスコを含めたベイエリアという地区に外出自粛令が出て、街はゴーストタウンと化した。銀行、スーパーマーケット、ガソリンスタンド以外は全部シャッターを降ろして閉まっている。学校も休校、公園も閉鎖となり、車の数もめっきり減った。こんなことが起きるのだ、と驚く。

犬の散歩は許されているので、夜、我が家の犬を連れて家の近所を歩いていると、知らない男の人が「俺はもう、全部失った。もう何もない。何もだ」と、一人で大声で叫びながら歩いていた。そう、本当に。世界中の誰もが職を失うか、命を失うかの二択を迫られているような状況なのだ。

そんな中、『志村けんさん逝く』のニュースが飛び込んできた。あまりの衝撃に、一瞬頭が真っ白になった。志村さんと共演させていただいたのは、一度きり。挨拶させていただくのが精一杯で、口もきけなかった。

ドリフターズは私のスーパーヒーローだ。『八時だよ!全員集合』が始まるのを待っていた、土曜日の夜の七時五十分くらいのあのわくわく感が、その後の私の人生を決めた。『◯んこち◯んち◯』だの、『◯ん◯んぶらぶらソーセージ~』だの、この手の小学生特有のトイレギャグは今も不意に言われたら爆笑してしまうし、この感覚は年を重ねようが海を渡って他国に住もうが出産を経て人の親になろうが消えることのない、細胞レベルで私に植え付けられた影響なのである。

あの、志村けん、がいない世界。このニュースを聞いてから、しばらくの間、朝起きるたびにこの言葉が頭に浮かぶ。この世界は志村さんがいない世界になってしまったのだ。

失礼を承知で書かせていただくが、私はその頃、加藤茶さんの大ファンであった。荒井注さんがドリフを脱退して、志村さんが入ってきた時、私は幼な心に『加藤ちゃん(幼少の頃は、加藤茶さんのことを加藤ちゃんという名前だと思っていた)があぶない』と、私の加藤ちゃんがこの新しい人に食われてしまうと余計なお世話の心配をして、志村さんがどんなにおもしろいことをしても、テレビの前で笑わないようにつとめていた。

私の幼な心の余計な心配は見事に的中し、全国の子供に『東村山音頭』が爆発的に当たっている中、私は加藤ちゃんを心配しテレビの前で踊らないように我慢した。

だがやがて中学、高校生になった頃からであろうか、志村さんの『ドリフ大爆笑』のいかりや長介さんとのもしもシリーズのコントを観るようになって、志村さんのコントの面白さに、もう幼い頃の加藤ちゃんびいきの心配もなく、心おきなく大笑いするようになっていた。

『寺内貫太郎一家』の樹木希林さんとドリフターズで、私の脳は形成されていると言っても過言ではないだろう。

世界中の人々が仕事か命かを失っているという状況下にこの、『影響』という連鎖のことを考える。

自分自身が誰なのか何ができる人なのかもわからない時期に、何かを強烈に、または静かに強く表現している他者を見て、自分も同じことをしてみたいと思うこと。だが人間は百人いれば百通り、同じことをしようとしても、その人のフィルターを通して表現され、結果違う形となって現れる。

私はこの『影響』とは人間が人生の中で行う行為の中で、最も美しい行為の一つだと思う。誰だって誰かの影響を受けている。芸術や美術に限らず、どの道でも、あるいは表現だけではなく、考え方だけでもいい。他者の表現方、考え方を見て、自分の方向を決める。

そう考えれば、人は必ず誰かとつながっているのである。それが嫌だという人もいるとは思うが、私は自分が影響を受けた人もきっと誰かの影響を受けていて、その人もまた違う人から影響を受けているはずで、その糸をたどっていくと一体どこの時代までつながっていくのか、そしてその人たちの仕事は何だったのか、どこに情熱を燃やしていた人にたどりつくのか、を知りたくなってくるのである。まったく違う仕事をしていた人にたどりつくこともあるだろうし、それを考えると、本当に面白い。

コロナにこの糸を切らせてはならない。いや、切れないはずだ。

コロナが降って湧いたようにやってきて、人が劇場やライブ会場に行かれないという事態が急に起きている。ワクチンや薬が開発されるまであと何年かかるのかわからず、またワクチンが開発されたところで、すぐに全部元通りの生活がやってくるのかわからない。

当面のところ、配信という形でしかできないと覚悟していた方がよさそうである。配信では伝わらない臨場感みたいなものもあると思うのでフラストレーションもあるとは思うが、少なくとも配信という形で発表することができるのだから、便利な世の中だと思って感謝すべき、いつまでも泣いていないでこの形に慣れていこうとした方がいい。

新しい形。今のところこの疫病に負けず生きている人間の使命としては、この新しい形を最大限に利用して、この『影響』の糸を切らないようにすることだ。

例え新しい形の中に今まで自分が経験してきた臨場感はなかったとしても、新しい形にだって伝えられる何かが必ずあると信じて、糸は切らない。もうかれこれ五十年近く前の、テレビの前の土曜日の夜七時五十分くらいのあの気持ちは、必ず誰かに渡していきたいと望む。

コロナには負けない。そう、人間が生きている限り、『影響』は続く。『影響』が続く限り、人間は負けないと信じている。

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