「人生の最期に走馬灯でこのネタがよぎりますようにマジで」
文:ワクサカソウヘイ(文筆業)

極私的に理屈抜きで好きなコントや漫才たちを、あえて「どうして自分はこのネタが好きなのだろうか」とああだこうだ理屈をつけながら考えて、勝手に納得していく連載です。
第三回目はうるとらブギーズのコント『迷子センター』の尊さについて、考えます。

#3
うるとらブギーズ『迷子センター』

引き続き、ずっと家の中にいる。
リビングからガラス戸を通して外を見れば、柔らかな雲と、淡い太陽とが、こちらに手招きしている。
間もなく季節は春から初夏へと変わっていく。
ああ、山に遊びに行きたい。海の波間を眺めたい。高原の空気を目いっぱいに吸い込みたい。
ステイホームの日々を粛々と過ごしていると、そのうちに自然の風景が恋しくなっていく。
部屋の壁の一辺倒なクリーム色には、もう飽きた。コンクリートに囲まれた空間から飛び出して、青空に触れたい、草の匂いと戯れたい。
そんな思いを持て余した時、私はYouTubeを開き、うるとらブギーズのコントを視聴する。するとどうだろう、乾いた心地に、いくばくかの潤いがもたらされ、私は穏やかさを取り戻していく。
うるとらブギーズのコントは、どこまでもシンプルなトーンに満ちている。雑味を混じらせることなく、澄んだタッチで、彼らは求道的に景色を描き続けている。それに触れるたび、私はたしかな清々しさを胸に得る。
「うるとら」で「ブギーズ」、その化学調味料を施したがごとき濃い目のコンビ名からは想像できないほどに、彼らの作りだすネタはどこまでもオーガニックな味わいなのである。とにかく、いますぐに動画の再生ボタンをクリックして、うるとらブギーズのコントを眺め、そこから流れてくる爽やかな風を感じてほしい。言いたいことは、以上である。
湖の透明感を理屈では語れないように、うるとらブギーズのコントを理屈で語ることは不可能なのだ。
しかし、それでは話が終わってしまうので、なぜ自分はうるとらブギーズのコントにこんなにも安らぎを覚えてしまうのか、無理やりに理由を探ってみる。そして気がつく。
彼らのコントには、「自然」が繊細かつ写実的に描かれていて、自分はそこに光を見ているのだということに。

描かれる繊細なリアリティ

うるとらブギーズがこれまでに発表してきたコント、そのどれもが私にとっては尊いものであるわけだが、ここでは厳選して『迷子センター』というネタを取り上げたい。
舞台は、デパートの迷子センター。職員が業務に従事していると、ひとりの男が慌てふためきながら部屋へと飛び込んでくる。
「すいません、すいません、息子が迷子になってしまったみたいで、探してほしいんですけど……!」
職員は冷静に、その父親に問いかける。
「お父さん、落ち着いてください。息子さんはどの辺で迷子になられたんですか?」
父親は、紳士服売り場で息子を見失ったと伝える。じゃあ館内放送をしましょうということになり、職員はその迷子の名前や服装を尋ねる。
名前は、「定菱(ていびし)」。髪の毛の色はシルバーで、髪型はタンポポの綿毛、もしくは耳かきの梵天、もしくはモーガン・フリーマンにそっくり。服は赤のトレーナーで、真ん中に「HEY‐YO」とプリントされている。
その独特な特徴情報を聞いて、職員はうろたえながらも、マイクをオンにして、館内放送をかける。
「迷子センターより、迷子のお知らせをいたします。三歳の男の子、佐々木定菱くん。タンポポ、耳かき、モーガン・フリーマンみたいな髪型。というより、ほとんどモーガン・フリーマン……」
ここで職員は笑ってしまい、館内放送を中断する。
「すいません、お父さん、すいません!」
「ちょっと、なに笑っているんですか! はやく定菱を見つけてください!」
「まかせてください、ぼくもプロなので」
そしてもう一度、職員はアナウンスに挑戦するが、やはり笑ってしまう。以下、繰り返し。そうしているうちに定菱くんは無事発見され、迷子センターでの騒動は終劇する。
奇抜な展開があるわけでもなく、烈しいギャグが連発されるわけでもない。実にシンプルな短編物語。
なのに、このコント、ずっと面白い。
日常の景色がささやかにブレ続け、笑いが絶え間なく注がれていく。
職員が思わず吹き出してしまう様、それに父親のそわそわとした様、その動作や表情にはリアリティが細かく含まれていて、こちらの目を引き込んでいく。

うるとらブギーズとモネ

で、いきなりだが、ここで、かなりオーバーな仮説を立てさせてほしい。
うるとらブギーズのコントの印象って、クロード・モネの『睡蓮』のそれと、似ているのではないか。

出典: クロード・モネ『日本の橋』


モネは言わずと知れた、印象派を代表するフランスの画家である。
彼が手掛けた作品群のうち、最も有名なのが、自宅の庭を描いた『睡蓮』シリーズだ。
その生涯の後半、モネはこの『睡蓮』を描きに描きまくった。その数、なんと200枚以上。彼は憑りつかれるようにして、晩年までの30年間あまりを、池の景色を写実することに費やしたのである。
モネはその類まれなる技巧によって、自然世界のささやかな移り変わりをキャンバスの中へ閉じ込めることに成功した。静的なはずの油彩画の中で、水面は揺れているように鑑賞者の目にうつる。一瞬の光の射し込みや、空気の震え。そういったものがこの『睡蓮』の中では繊細に再現されているのだ。
そんなモネの作品と、うるとらブギーズのコントは、どこが似通っているというのか。
もう一度、『迷子センター』を冒頭から観てほしい。うるとらブギーズのふたりはあらゆる場面で、自然の小さな揺れ動きを、コントの中へと閉じ込めることに見事成功しているのである。

動揺すらも肯定する写実主義者

まず、注目したいのは父親の一挙手一投足だ。
彼は、息子の行方がわからなくなり、動揺している。そして現在点において自分ができる精いっぱいのふるまいとして、迷子センターの職員に息子の情報を子細に伝える。
彼は息子が見つかることをナチュラルに祈っている。その様子は実に原寸大的で、リアリティに満ちている。過剰なウソがひとつも混じらない、自然的な人間の動揺の姿がそこにはある。
そして、職員もまた、ひとりの人間として、真摯に動揺する。
彼は職務をまっとうしようとするが、しかし「定菱」や「HEY‐YO」などといった奇怪なワードによって、声を震わせてしまう。「モーガン・フリーマンみたいな髪型をしている三歳児」を思い浮かべながら、真面目にアナウンスをすることなど、できるわけがないのである。
このようにコント『迷子センター』の中では、市井の人々のごく自然的な姿が、繊細な筆致で描かれている。人間の営みの中にある、ささやかな揺れ動きに、光が当てられている。
モネがそうであったように、うるとらブギーズもまた、写実に魂を捧げた者たちなのだ。

完璧な写実をものにすると、どんな揺れ動きも自然のものとして肯定することができてしまう。
冒頭のシーンでも、それは証明されている。
舌先にバグが発生してしまったのだろう、父親からの相談を受けた職員は、「探し出しますので」というセリフを、「探しだふぃまふので」と発している。
しかし、コントは一切破綻しない。
職員も父親も、平然とその「探しだふぃまふので」を受け止めているのである。
これって、並大抵の技巧では表すことのできない場面なのだと、私は思う。
発した言葉がブレること。うるとらブギーズの写実性にかかれば、それもまた、水面が揺れるのと同じく、この世界ではありふれたこととして、処理されてしまうのである。
冷笑的ではなく、大らかで、自然的。
そんな彼らのネタは、本当に、尊い。

私は今日も、迷子になったような心地で、家にいる。
うるとらブギーズのコントに自然の奥行を発見しながら、家にこもり続けている。

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執筆者プロフィール
ワクサカソウヘイ
文筆業。東京生まれ。
主な著書に『今日もひとり、ディズニーランドで』、『ふざける力』、『夜の墓場で反省会』、『ヤバイ鳥』などがある。
YouTubeでネタ動画ばかりを視聴して毎日を過ごしています。

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