ケータイよしもとで連載していた人気コラム、『ゆにばーす川瀬名人の認定戯言』がラフマガで復活しました。
川瀬名人の「戯言」にお付き合いください。

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徹底解説! お笑い芸人の特殊能力「にん」について【ゆにばーす川瀬名人の認定戯言#7】

 

タイトル『何故川瀬は土曜の昼にダッシュで新喜劇を見に帰っていたのか』

「ゆにばーすのコント面白かったです!」

などとあまりお笑いを見ない人によく言われるが、これを額面通りに受け取ってはいけない。

ゆにばーすがやる、コントという演目が、面白いといっているのではないパターンが多々ある。
何故ならここでいうコントとは漫才のことを指しているからである。

コントとは漫才のこと、これもまた額面通り受け取らないで頂きたい。

こと東京では漫才が文化として昔からあるわけでもなく、東京でお笑いといえばコントであり、漫才もコントの中に含まれる一つの演目と認識されていることがよくある。

それもそのはずで、今年のキングオブコントファイナリストの東京勢の強さは衰えを知らない。そもそもコント師自体の絶対数が違う。関西にいくとコントをやっている師匠は数えるほどだが東京はバリバリコントをやってる師匠も浅草にいけばたくさん見ることができる。

一方で関西ではコントをやる場所もやる人も少ない。なんばグランド花月の寄席でコントを定期的にやらせてもらえる芸人は10組もいない。よくもまあ今年のキングオブコントファイナリストに3組も入ったものである。そう、それくらい関西では漫才が文化として根付いており、漫才の方が強い……。

と思うのも少し早計である。
みなさんお忘れかもしれないが、なんばグランド花月のメインは漫才ではない。
メインは……
吉本新喜劇と言う名の
スーパーロングコントである。

これは劇場だけではない。
土曜の昼から生中継で関西の茶の間で毎週スーパーロングコント番組をやっている。
無論視聴者はコントという意識は持っていないであろうが。

ただ、新喜劇は異常なくらいウケる。
勿論、演者、脚本、稽古、舞台装置諸々……理由を上げればキリはない。

ただ、新喜劇というジャンルが何故にこんなにもウケるものなのか。
毎週土曜に学校から爆速で帰って何故あんなにも川瀬は新喜劇を見ていたのか。

芸人になって10年。
客観的に見ればコントだが、見る人はそう思って見てはいない、漫才文化が根強い大阪で、並み居る大師匠を押しのけなんばグランド花月の寄席のトリを飾り続けるこの新喜劇のウケる根源のものはなんなのか考えたい。

その前に一つ言っておきたい。
川瀬はコントは嫌いである。
正確にいえば、対戦相手として嫌いである。

コントは卑怯である。
何度も煮え湯を飲まされてきた。

音は使っていい、道具も使っていい、照明も使っていい……全く違う演目であるにも関わらず、漫才とコントは若手のお笑いライブにおいて平気で対戦させられることが多々ある。

漫才師から言わせれば反則も反則。
ボクシングルールでやってんのにバリトゥードと戦うに等しい。

一度、若手の劇場ランキングシステムの入れ替え戦で、ライスさんが劇場の激でかいモニターを使ってカラオケのコントをやった時に掻っ攫った笑いの量は一生忘れない。あんなもんもはや凶器攻撃である。トレンディエンジェルさん、えんにちさんなど、M-1でも上位のランカー達がなすすべもなく蹴散らされた。

キングオブコントだけ見るとM-1に比べれば何かこう盛り上がってない感じはあるが、本来は圧倒的にコントの方がテレビ向きであり、劇場向きであり、エンターテイメント性が溢れている。

それが証拠にエンタの神様ではM-1チャンプでも平気でコントをやってたりする。我々も実はそう。正直物足りなかったりもするし漫才をやれればそれが最高ではあるが、番組側は完全に理解している。コントの、見るものに笑う心構えをさせる、圧倒的速度を。

笑う準備。
これは別にハードルをあげるということではない。笑う態勢というものであろうか。
芸人やお笑いファンなんかは既に見る前からできている。ただし、普通にたまにテレビでお笑い見ますよ、というくらいの人はそんなに準備は早くない。

コントが始まることで何か面白いことを始めますよという合図が同時に始まる。おまけに衣装もその設定に準じたものを着ている。番組によってはセットも用意してくれている。

ただし、これが漫才だとわからない。
スーツを着ていても漫才をする人なのであって、出てきた時点でどんな漫才をするかもわからない。知らない2人の立ち話がおもしろければいいという松本さんの究極漫才論はあるが、逆にいえば知らない2人が出てきて立ち話されても笑う準備はできていない。

これは初っ端に伝える情報量の違いである。

漫才には掴みというものがあるがこれは情報を与えつつ笑う準備も同時にさせる、というものになる。

コントで掴み、なんて聞いたことがない。
それは初っ端に与える情報量がコントが圧倒的に多いので必要ないのである。

それに加えて漫才とコントでは与える情報の種類が少し違う。

漫才はその人の人間性の情報。
コントはその人が演じている役柄や状況の情報。

その情報の種類の違い故に、逆にその与えた情報に縛られてしまうのもコントである。情報を最初に伝えてしまう分、客席と舞台の上との間に境界線ができる。
この境界線が引かれることにより客席も笑う準備ができるわけだが、双方、もうこの線より踏み込むことはできない。この線を踏み越えてしまった場合、せっかく与えた情報で構築した世界は総崩れになるのである。

具体例として芸歴3年目の時、キングオブコント二回戦、明治安田生命ホールにおいて、ゆにばーすのコントは死ぬほど滑った。最初のボケを外してどんどん滑り、途中、客席に見にきていた2年先輩の三戸キャップさんと目が合った。
通常コント師に、「今日の前の方にいたお客さんめっちゃ寝てなかった?」などと聞くと「いや、見れねぇよ」と返ってくる。通常はそれくらい境界線がバッチリ引かれているのであるが、当時のゆにばーすの稚拙なコントでは役柄や状況の情報を伝えきれず滑りまくってその結果境界線は崩壊し客席の三戸キャップさんと目が合うまでの事態をひきおこしている。

漫才はその点においては有利である。漫才に境界線はない。むしろ境界線があってもいいのは賞レースで、基本的に寄席ではお客とコンビの三角関係を作らないといけない(M-1GP2018の審査員コメントにもある)。
人間が喋ってるのだから、その人間性の中であれば何をしたっていい。最悪舞台から文字通り降りたとてその人間性が崩れない限りはやりたい放題。俗に言う「おりる」という行為だ。好みはあるものの漫才では技術の一つでもある。

コントと漫才、それぞれの演芸の強み弱みがある。

ここで一つの仮説を唱えたい。

この強みをいいとこ取りしたのが
新喜劇
ではないだろうか?

考えるに新喜劇はその中間に位置するのではないだろうか。厳密にいえばややコント寄り。

寄席において新喜劇が始まる前は一度幕を閉じてセットを準備する。そして改めて幕が開いて始まる。

コントにおいて1人1人出演者が袖から出て来るたびに拍手やSEが鳴るなんてのは新喜劇ならではであり、楽器の演奏やお決まりのクダリでは手拍子まで起きる時もある。この風潮からもややお客さん参加型であることがわかる。

さらに特筆すべきは新喜劇団員の方の人間性である。

劇団員はだいたい必殺のクダリやギャグを1人ずつ持っている。
これを台本が変わろうが設定が変わろうが配役が変わろうが絶対やる。その役柄ではなくあくまでも劇団員という人間が役柄をやっているだけなのである。
宝塚のスターシステムにギャグやクダリを入れることによって見事に演じる人自身の人間性を演出することにも成功している。

故に噛んだりネタを飛ばしたりアドリブを入れたり、通常のコントではできないことまでも可能にしている。

人間性を出したり演出したりするのは漫才の手法。
潤沢な舞台装置や衣装などで情報を一気に伝えるのはコントの手法。

この漫才とコントの2種の演芸のいいところを取った高次元の演芸、これが吉本新喜劇の面白さと人気の秘密ではないだろうか。

しかし、
今回、一回もボケなかったな。

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